とりあえず、やってみる。

思いがまとまらなくても、まずは文章を打ってみる。

確率が判断の決め手になるとは限らない。

物事をやるにしてもやめるにしても、判断材料として確率が使われることが多い。特に、ネットが一般的になってからは、確率を根拠として「〇〇したほうがいい」とか「〇〇するのは良くない」結論づける類のものをよく目にするようになったような気がする。特に未知のものに対してはわからないことも多いから、どうしても確率というものを頼りにしてしまうのかもしれない。

 

でも、確率は判断する材料にはなっても必ずしも判断の決め手になるとは限らないと、最近は感じている。今までを振り返ってみても、例えそうしたほうがうまくいく確率が高いといっても、自分が納得していなかったためになかなか実行には移せないことが多かった。逆にどんなに確率が低くても、自分がやりたくてたまらなかったら自然とやってしまったことも多かった。

 

だから、判断の決め手はやっぱり自分の気持ちになってくると思う。もし、そこで周囲から確率を引き合いに出されても反発するだけだろう。いくら確率が高いと言われても「それで本当に100パーセントうまくいくのか?」と反発してしまうだろうし、逆に確立が低いと言われても「やってみないとわからないじゃないか」と思ってしまうだろう。それだけ、自分の本心というのはとらえ方さえも変えてしまうのだと思う。

 

だから、何かアドバイスをする機会があったら、確率を前面に押し出すことは避けたほうがいいのかもしれない。自分と他人は全てが同じわけではない。だから、そこで確率の話を持ち出すことは、自分と他人を一緒にされているような感じになるのかもしれないし、確率を使って丸めこもうと思われてしまうかもしれない。それくらい、確率というのは使い方が難しいのかもしれない。

 

そうなってくると、確率がどうのこうのよりも、本人が心から自分にとってのメリットを感じるかどうかにかかってくるような気がする。結局のところ、確率がどうあろうと、例え結果が出ても自分が納得したやり方でなかったら、どこかモヤモヤが残ってしまうものかもしれない。逆に、結果が出なくても自分が本当に納得したやり方だったら、意外とどこか満足してしまうものなのかもしれない。