とりあえず、やってみる。

思いがまとまらなくても、まずは文章を打ってみる。

「自分の話を聞いてくれないかもしれない」という不安

僕は自分から話しかけることをほとんどしないし、話しかけられてもあまりしゃべらないことがある。その一方で自分が話したいことがあると、あれもこれもと必要以上に話してしまうことがある。そうなってしまうのは「相手は自分の話を聞いてくれないかもしれない」という不安があるからだと思う。そういう不安があるから、相手は自分の話を聞いてくれないと思い込むことで話すことに消極的になってしまったり、あるいは「今が自分のことを話すチャンスだ」と意気込んで過剰に話してしまったりするのだと思う。

 

ではなぜ、自分の話が聞いてもらえないのではないかという不安を抱いてしまうのだろうか。それは学生時代に自分が話しても、否定されたり茶化されたりあるいは聞き流されたりするということが過去に何度もあったからだと思う。それが当時の僕にとっては僕のことを全否定されたような感じであり、それがとても悔しかった。そうやって自分の話が聞いてもらえないのでないかという不安を一度抱いてしまったから、自分の話を誰も自分の話を聞いてくれないと思い込むようになってしまっていたし、人と会話をすることに恐怖を抱くようにさえなってしまった。

 

その反面、自分の話を聞こうとしてくれた人たちが学生時代でも社会人になっても誰か一人はいた。僕が話したことを否定も茶化も聞き流すこともなくしっかり耳を傾けてくれた。その人たちには精神的に本当に助けられたし、とても信頼することができた。今の自分がいるのもその人たちのおかげだとさえ思っている。自分の話を聞いてくれない人がいた一方で、こうして自分の話を聞いてくれる人も確実にいた。だから、自分の話を聞いてくれる人は必ずどこかにいる、ということを信じることがとても大事だと思う。

 

今までは自分の話を聞いてくれないことに怯えていた。でも、これからは自分の話をまともに耳を傾けないような人には、こちらだってまともに取り合わなくてもいいのではないかと思っている。そもそも自分の話をまともに聞かないような人といい関係を築けるはずがないし、自分の話を聞かない時点で、相手は自分のことを明らかに見下しているに違いない。だから、そんな相手にエネルギーを費やすのはもったいない。それよりも自分の話を聞いてくれる人を大切にできるようにエネルギーを使いたい。

 

そもそも「相手は自分の話を聞いてくれないかもしれない」という不安があるということは、言い換えると相手を信用していないということになるのではないだろうか。これは相手の立場になってみたらとても屈辱的なはずだ。もし相手にその不安が伝わってしまったら、相手は僕に好意的な態度をとることはないだろう。そう考えると自分の話を聞いてくれないという不安を抱いたまま相手と向き合うことはとても恐ろしいことのような気がしてしまう。

 

ただ人の話を聞いているだけでは、お互いにいい関係は築けないのではないかと僕は思う。そして時には自分の話をすることも必要ではないかとも思う。そうしないと相手は僕のことがわからなくて戸惑ってしまうと思うからだ。やっぱりお互いがある程度均等に話したり聞いたりするからいい関係が築けるのだと思う。そういうことができるようにするためにも、相手が自分の話を聞いてくれないかもしれないという不安に振り回されないことが、今の僕には大切なことのような気がするのだ。