とりあえず、やってみる。

思いがまとまらなくても、まずは文章を打ってみる。

「下手にやれる」環境を、大切にする。

上手な人は目立ちやすいけれど、下手な人もまた目立ちやすいものだ。そして、周囲は下手な人に対していろいろと言ってしまうものだ。確かにそれがきっかけで上手になることも少なからずあるだろう。でも一歩間違えると、周囲からいろいろと言われてしまうことで自信を無くしてしまったり自分を見失ってしまったりする可能性も決して少なくないように感じる。

 

そして、僕は上手にできなかった時に周囲からいろいろと言われることで、自分を見失ってしまうことが多かった。また、他の人が下手だった時の周囲の酷評を恐ろしく感じていたことも多かった。だから、最初からうまく取り繕うとしていたし、一度やってみて自分が下手だと思ったことにはその後は手をつけようとはしなかった。それくらい、僕にとって「下手」は何の役に立たないものだと思っていた。

 

そのために今まで僕は他人に「下手だ」と言われるのが嫌だった。でも、最近になって下手と言われるのを恐れすぎてしまっているから、必要以上に良く見せようとしてしまったり無理をしたりすると思えるようになってきた。例えその時は切り抜けられても、切り抜けられたことで相手の自分に対する期待値が高くなってしまったり、逆に自分が無理をしなければいけない状況に追い込まれてしまうのだと思う。

 

そう思えるようになったのも、現時点で下手なのは決して悪いことではないと思えるようになったからだ。どんな分野でも、最初の数回のうちは大事なポイントも要領も理解できていないために、下手になってしまうのも致し方ないのだと思う。そこで上手にやれる方法を模索することによって、大事なポイントや要領が徐々に分かってきて、何回もやっていくごとに、下手から上手になっていくのだろう。

 

また、下手なことに対する指摘や酷評も、本当に自分のためを思ってくれるものと単なる自己満足や出る杭を打つためのものに分かれているように思えてきた。そして、後者に関してはあまり必要以上に気にする必要はないと思えるようになってきたのも大きいと思う。そう思えるようになったのも、社会に出ればやり方次第で後者の人たちに対して距離を置くこともできると感じているからだ。

 

だから、最初のうちは下手でも構わないと思う。そこで下手を隠して上手なように装ってしまえばどんどん自分が苦しくなっていくだろう。そして、下手を受け止めてくれる人や環境にもし出会ったら、絶対に大切にしたいと思う。自分を隠さずに済む環境ほど、素晴らしいものはないと思う。そう思うと、下手にやれるということはいい環境にいると言えるのかもしれない。