とりあえず、やってみる。

思いがまとまらなくても、まずは文章を打ってみる。

なぜ「批判は注目されている証」に違和感を感じるのか

前のエントリで「批判は注目されている証」ということに疑問を感じていることを書いた。そもそも「批判は注目されている証」ということに違和感を抱きはじめたきっかけは三か月ほど前に「批判」という言葉でネット検索をしたことからだった。

 

検索結果の中には「いかにして批判をやり過ごすか」という内容のものがあった。そしてそういった内容のものを読んでみると「批判されていることはそれだけ注目されていることです」とか「注目されているからこそ批判があるのです」というように、批判されることを慰めるようなことが書かれているものが多かった。確かに注目されればいろいろな人がからむから称賛だけでなく批判がでるのも自然なことなのかもしれない。

 

しかしながら「じゃあ批判されないと注目されていないことになってしまうのか?」とその文章を読みながらそんな違和感を感じてしまった。誰だって批判されれば少なからずショックを受けたり傷ついてしまったりするだろう。できることなら批判は受けない方がダメージを受けないし快適に生きられるはずだ。むしろ批判を寄せ付けないように生きていくことがあってもいいと思うからこそ「批判は注目されている証」ということに違和感を感じてしまうのだ。

 

どうしてここまで批判を嫌うかというと、批判の内容が単なる嫉妬だったり当事者の是正を促すものとは程遠いものばかりだからだ。メディアの露出や情報だけで他人の人間性を判断して欠点を酷評する。あるいはスポーツにおいて、なぜあの選手を使わないんだとかなぜあの選手なんか使ったのかと声高に叫ぶ。下手したら「だから日本はダメなんだ」ということまで言ってしまう人もいる。それにしても実際に会ったり一面だけしか見えないのによくも気軽に言えるものだなと思ってしまうし、それだから日本はダメなんだと言っても自分だけではどうにもならない無力感を与えるだけなのになと思ってしまう。

 

だからこそ「批判は注目されている証」という言葉が、そんな役に立たない批判を正当化しているような気がしてしまって違和感を感じてしまうのである。むしろ「批判は注目されている証」と声高に叫んでいる人ほど、自分もそういう批判をしたくてたまらないのではないかとさえ勘ぐってしまう。

 

だから、批判されようがされまいがそんなことは気にせずに、自分のやりたいことや自分がやるべきことに集中すればいいと思う。注目されるということは、言い換えるとそれだけやっている・動いているという証でもある。やっていようとやってなかろうと批判は出てくる可能性はある。しかし、やっていなかったり動いていなけければ称賛や応援という形で注目してくれる人が現れることは決してない。だから「批判があることはそれだけ注目されている証」というよりは「称賛や応援があることはそれだけ注目されている証」のほうが精神的にもいいのではないかと思っている。